奈良県奈良市に本部をおく潟Iフィスシオン(社長寺本恵美子氏)は、同社の取締役会長である寺尾俊一氏のもと、現在のように小規模葬が一般化する以前から、その可能性に着目、小規模葬専門特化を標榜した葬儀社である。
創業者である寺尾会長は、大学在学中から葬祭業に関わっていた。そのきっかけとなったのが、夏季休暇中、地元(三重県四日市市)に帰省してアルバイトで携わったイベント設営のときだった。
「当時はバブル期だったこともあり、各地でさまざまなイベントが開催されていました。ただ、イベントは毎日開催されるわけではありません。そんなとき、葬儀の仕事なら毎日あるからそこでバイトをしてみてはどうかと誘われたことがきっかけだったのです」と寺尾会長。
とはいえ、葬儀の仕事といわれても勝手知ったる世界ではないはずだ。寺尾会長は、「当時は自宅葬が中心の時代でしたから、物心ついたころから近所の家で葬儀が行なわれているのは日常茶飯事でした。そのため、何となくではありますがイメージはつきやすかったのです」と語る。
葬祭会館ですべてが完結してしまう現在とは異なり、自宅や寺院での葬儀が営まれる光景を目にしていた世代にとっては、葬儀そのものに抵抗を感じる人は少ないということなのかもしれない。
その後、アルバイトを経験するうえで葬儀の奥深さに魅了された寺尾会長は、大学卒業後、迷わず四日市市内にある老舗葬儀社の門を叩く。厳しい教育を受けながらも葬儀のイロハを学ぶなか、入社した葬儀社が展開する会館の責任者に抜擢されると、月3、4件だった施行件数を20件ほどに伸ばすなど、水を得た魚のような活躍をみせる。
そうした実績が評価され、1992年に冠婚葬祭互助会からヘッドハンティングされると、現場責任者として多くの葬祭関連施設の開発に携わったそうだ。
98年には大阪市内の専門葬儀社に転職。2年ほど在籍したのち、いくつかあった派遣女性スタッフのグループを統合しようとする動きに応じて、葬祭関連の派遣スタッフを取りまとめるオフィスシオンを2000年に設立。これが、オフィスシオンのはじまりである。
その後、奈良、大阪、京都といった関西圏の葬儀社を中心に、葬祭専門スタッフの人材派遣サービスを行なっていたが、そのなかで得た消費者の声をもとに、2007年10月、株式会社に改組し、家族葬専門葬儀社として新たなスタートを切った。
前述のように、同社が家族葬に特化した展開をはじめるきっかけとなったのは、派遣サービスを行なっている際に寄せられた相談や喪主からの声だった。
「当時は、200〜300人規模の会葬者を集める葬儀も多く、葬儀社も大型葬を勧める時代でしたが、一方で、喪主からはもう少し規模の小さな葬儀で故人を見送りたかったという声も漏れ伝わってきました」と寺尾会長。
同社から派遣されたスタッフは、寺尾会長以上に、そうした小規模葬の潜在ニーズを体感する機会も多く、実際、会葬者も徐々に減少していると感じていた。
もちろん、葬儀社のなかには、そうした兆候に気づいていた会社もあるだろうが、多くの会社は3ケタの会葬者がある現実だけを直視し、2ケタの会葬者の葬儀などそうそうないという想いであった。それゆえ、10〜30人の小規模葬を申し出る葬家がここまでふえてくるとは予想できなかっただろう。
しかし、寺尾会長はこれらの動きを葬送に対する消費者ニーズの転換期と察知。派遣でつきあいのある会社を中心に、それらの会社が(できれば)断りたいと思っている小規模葬だけを行なう専門葬儀社を開業することを伝え歩き、了承を得たうえで開業した。しかも、その際、販促活動は新聞折込みチラシなどを一切せず、自社運営によるインターネットでの販促だけに限定するという条件を自ら課している。
とはいえ、開業後、華々しいスタートダッシュを飾れたわけではなく、当初は月に1、2件という受注が続いたという。しかし、徐々にその潮目が変わっていく。
同社が本拠をおく奈良県は、大阪の衛星都市として人口流入も多く、奈良・京都では学研都市開発も進行している。学研都市には所得水準が比較的高い富裕層(医者や大学教授、一部上場企業の役員・元役員等)が移り住んでいる。しかも、これらの富裕層は早くからインターネットに精通していることから、Webを介した葬儀社検索も苦にならない。
こうした富裕層を中心に葬儀受注が入りはじめ、その後、徐々に一般消費者にも同社の評判が浸透し、創業2年目には約120件の施行を獲得するに至る。現在は年間約700件の施行件数をとり行なっているが、同社が飛躍しはじめたころ、「小規模葬を流行らそうとしている葬儀社が奈良にあるらしい」といった非難の声が一部事業者からあがるなど、風向きが厳しい時代も味わったようだ。